三重県松阪市は人口約15万人の中堅都市。昔から伊勢神宮への参詣客が立ち寄る宿場町として栄えてきた。また、江戸時代には多くの豪商がこの街から台頭してきた。銀行や不動産、商社で知られる三井グループの祖、三井家はその代表である。だが、現在、「松阪」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは霜降り肉の代名詞、松阪牛だろう。市内には飼育農家はもちろん、すき焼きをはじめ、牛肉料理の名店が点在する。
三重県は牛肉のみならず、伊勢海老や鮑といった海の幸の高級ブランドも擁する、食材に恵まれた土地で、その歴史は古い。720年に完成した歴史書『日本書紀』には皇祖神、天照大神がここは自然に恵まれた「美し国(うましくに)」、つまり「うまい国」だから、ここにいたいと述べたという趣旨の記述もある。
そんな地に1年先まで予約が埋まっているという中国料理店『私房菜 きた川』はある。松阪駅から車で20分。周り水田に囲まれた、元養蚕農家であった古民家を改装し、営業している。
オーナーシェフ、北川佳寛は松阪市で生まれ、大阪の調理師専門学校に進んだ。1993年当時、中国料理はうま味調味料で味を整えるのが当たり前だったが、講師として学校を訪れたヌーベル・シノワの巨匠、『文琳』オーナーシェフ、河田吉功による、うま味調味料を使わない中国料理の味わいに衝撃を受ける。卒業後、数店の中国料理店を経て、『文琳』に入店。河田の思想や技術を学んだ。
「引き算の料理というより、最初から余計なものは入れないという発想です。トマトやスイカに塩をかけると甘く感じる、という思考法で最小限の素材と調味料で、シンプルな料理を作ります」と北川は語る。
実力をつけ、独立を考えたのが2014年のこと。
「最初は東京で店を出そうと思っていたのですが、当時の職場で疲れ切ってしまい、精神的にも耐えられなくなって実家に帰ったんです」と北川は言う。
そこで現在の店舗となる古民家を買い取り、2015年に中国料理店を始めた。最初は比較的安価な価格でランチも提供していた。
「その後、仕事に戻る人のために、という理由で、にんにく不使用の料理を作っていたのですが、それがかえって、私の料理の特徴となり、いっそう味わいがピュアなものになりました」。
そんな料理が次第に話題を呼び、県外からのゲストが増加してきた。そこで三重県の魅力をもっと知ってもらおうと、名産である松阪牛や伊勢海老、鮑を意識的にコースに取り入れるようになっていった。高級食材を使用すれば、自ずとコースの価格も上がり、営業スタイルも変化する。コロナ禍を機に1日1組の完全予約制とし、現在は¥33,000〜のコースを提供している。最小限の調味料で素材の個性を引き出す北川の料理には、日本らしい“しみじみとした感動”がある。それは松阪の地が生んだ、江戸時代の偉大な国学者、本居宣長が提唱した日本特有の美意識“もののあはれ”に通ずる。北川が作るのは四川や広東の料理をベースにしながらも日本オリジナル、北川オリジナルの中国料理。それは本場中国でも食べられない、ここにしかない料理である。