大分空港より車で約50分。または空港からリムジンバスで湯布院駅まで向かえば、ベントレーで送迎もしてもらえる。10棟のヴィラと9室の客室のすべてに露天風呂を備えるラグジュアリー・オーベルジュ『エノワ』に近づくにつれ、古くから「神の山」と崇められてきた由布岳が大きく迫ってくる。大分県は、県内ほぼすべて(16市町村)において温泉が湧き出ており、2016年3月末の時点で源泉数、湧出量ともに全国第1位を誇る「おんせん県」として知られる。なかでも由布市湯布院町は高級温泉地としてのブランディング戦略、観光地としてのまちづくりのお手本として、よく知られている。
湯布院町は戦前まで農業主体の村だったが、1970年代に地元の旅館経営者たちがドイツのバーデン・バーデンでの視察をきっかけに、自然を残すことで自らも生き残る観光地づくりを推進。大規模開発に抗い、自然環境を保ちながら、食事やサービスの質にこだわる中小規模の旅館を運営することで、集客に成功してきた。この地で「御三家」といわれる『亀の井別荘』『湯布院 玉の湯』『山荘 無量塔』をはじめ、湯布院町の旅館で提供される食事はほぼ、日本料理だ。そんななか、2023年6月にオープンした『エノワ』の影響は決して、小さなものではないエグゼクティブ・シェフ、タシ・ジャムツォによる、イノベーティブな料理はこの地を目指す県外や海外からの観光客にとって、早くも新しい理由となっているからだ。
タシはチベットにある標高3000m以上の山間で生まれ育った。そこでは畑で野菜を作り、牛を育てる自給自足が当たり前。「毎日、牛を放牧させるのが私の日課でした。私たちは農耕民族で遊牧民族の親戚と物々交換をして暮らしていました」。そんなタシ一家は2008年、タシが18歳のときにNYに移住。大学卒業後、本格的に料理人を志し、2015年からNY郊外で「farm to table」のコンセプトを掲げる『ブルーヒル・アット・ストーンバーンズ』で4年間働き、最終的にはスーシェフを務めた。ほか、ヨーロッパで数店、日本でもイノベーティブ『ナリサワ』、日本料理『傳』『菊乃井』、さらには発酵の勉強のため、蔵元『寺田本家』でも研修を受けるなど、意欲的に自分の食の世界を拡げてきた。その結果、『エノワ』を開業する3年前の2020年に湯布院町にたどり着き、畑を開墾するところから準備を始めた。
「湯布院町の環境、そしてオーナーが掲げる『自家畑で育てた採れたての野菜を主役にした料理を出す』というコンセプトが自分のやりたいこととピッタリ重なったんです」とタシは語る。
現在は近隣にある約10,000㎡の畑で年間約200種類の野菜やハーブを無農薬で栽培。名だたる料亭やレストランから支持される京都『石割農園』石割照久を農業顧問に迎え、タシはじめ、スタッフともども畑仕事に携わっている。地産地消の、さらに先を目指して、土から料理を創造する。
『エノワ』のメインダイニング『ジングー』(チベット語で「帰るところ」を意味する)のディナーは温室から始まる。室内で栽培されるハーブの香りが満ちるなか、みずみずしい生野菜に同じく野菜のディップを添えたものやカナッペなどが供される。続く料理も県産の魚や別府の放牧牛を合わせながらも、野菜たっぷり。初夏ならアスパラガスやそら豆など、どれも採れたてならでは、甘さ、ほろ苦さ、酸味などの味わいが鮮烈だ。こちらは宿泊施設のあるオーベルジュ(1泊2食¥72,600〜)。朝ごはんに使われる卵は『エノワ』がアニマルウェアフェアに則り、ともに飼育に取り組む町内の養鶏場のもの。『エノワ』で出る野菜クズを鶏のエサに、鶏のフンを『エノワ』の畑の肥料に回している。タシが目指すガストロノミーはそんな循環の中にあるのだ。